「あれが、欲しいと思ったことはないか?」
「うん?」
俄に紡ぎ出された言葉に、趙雲は馬超を見る。
その馬超の瞳はまっすぐ、朱天に浮かぶ水鏡を見ていた。
「あれ?」
「ああ、あの月だ」
朧げな光を放つ月に視線を一度流してから、趙雲は馬超をもう一度見遣る。
その顔に戯れはなく、遠く懐かしむ色を浮かべていた。
「おれは子供の頃、あれが欲しくて仕方なくてな。夜中、邸をこっそり抜け出しては近くの丘へ行き、ずっと、あれに向かって手を伸ばしていたものだ」
「……」
「何だ、笑うな」
「いや…」
思わずくつくつと笑い出した趙雲に、馬超は片眉を上げて抗議する。
だが趙雲が笑うのも詮無きこと、いくら幼き頃とはいえ、決して地上からでは届くはずのないあの月へ、一生懸命手を差し出して掴もうとする小さな馬超を想像すると誰であれ顔を綻ばせるだろう。
無論、それは馬超もわかっている。
だからわざとらしく顰め面をして見せてはいるが、内心おかしくて仕方ないらしく、その眦には笑みを隠せないでいた。
「会ってみたいな」
「うん?」
「その頃の、孟起に」
緩めた目で馬超に微笑みかけると、趙雲は少しだけ首を傾いでそう言った。
「やんちゃだったのだろう?」
「ああ、まァな」
「馬岱殿が、いつも引っ張り回されたと言っていた」
「あいつが、いつだってくっついて来たんだぞ」
「それでよく一緒に叱られたんだって?」
「……岱の奴、お前に一体何を吹き込んだんだ」
ぷう、と面白くなさそうに口唇を尖らせる馬超に、趙雲は堪えきれずに笑い出した。
「後で吐かせてやる」
追い打ちをかけるような馬超の言葉に、趙雲は身体を揺すった。
「ははは!やっぱりわたしは、その頃の孟起に会ってみたいよ」
「………」
西涼の地で、思うがままに駆け回り、悪戯三昧だったであろう幼い馬超を想像して趙雲は目尻を潤ませながら笑い続ける。
それを見る馬超の眼差しも、やわらかい。
だが、西涼の悪戯ッ子はその気質を未だ失っていないらしく、本領発揮とばかりに眉根をくいと持ち上げて不貞不貞しい表情をつくると、抱いたままだった趙雲の肩を力強く引き寄せた。
「なァ」
「え?」
「お前は、今のおれでは不満か?」
「え…?」
顎を引き気味にして趙雲の目を覗き込む馬超の鼻先と、趙雲のそれとは触れそうなほど近い。
吐息も鼓動も、手に取るようにわかる。
だから。
「今、お前の目の前にいるおれだけでは、満足できないか?」
問いかける馬超に趙雲は、笑声を零すことをやめて、しかしその顔から微笑を消すことなく、ただ瞳でもってそれに応える。
掛布に覆われた素肌から相手の体温がちゃんと感じ取れるようにそれは、言葉に頼らずとも馬超にきちんと伝わった。
「そうか」
違うことなく届いたその想いに、馬超は満足げにそう言うともう片方の手を趙雲の頬へと滑らせて指の腹で優しく撫でた。
「君は、今でもあの月が欲しいと思うかい?」
羽根でくすぐられるようなその愛撫に趙雲は、格子窓の向こうに浮かぶ月を細めた目で指して馬超に訊ねた。
「…さァ、どうだろうな」
月を見ることなく、馬超は言った。
その目は、趙雲だけを見ている。
「子龍」
「…ン」
はぐらかすような返事を寄越した代わりなのか、馬超が趙雲を促す。
それに、趙雲は素直に瞼を下ろす。
甘やかに口唇を合わせる二人の閨房に、月は穏やかな光を降り注いでいた。

the moon
≪re.